「論理療法」アルバート・エリスを読んでみた5
寒い日が続いたかと思うと、今日は鎌倉は23度を超えるようだ。11月も半ばに差し掛かるというのにどういうことか。
さて、「論理思考」の有用性を読み進めてきたわけであるが、第8章の最後は「論理療法に対する不安」について。このような論理的思考に冷たさがあるという意見である、論理を積み重ねて突き詰めていくプロセスがあまりに機械的で冷たい人間になっていくようだと言うわけだ。つまり、来訪者は「喜びを見いだす能力を失いはしないか」(p102)と述べる。まあ、これも保守的で論拠の希薄な感情論に過ぎないわけだが、著者は「今よりも不幸な感じ、悪くなる感じを味わうということが証明されましたか?」(p102)と論駁する。来訪者に論理的な反論はない。さらに、著者は「なぜやってみようとしないのか?」駄目なら止めればよいではないか?と諭す。来訪者は断る理由もなく、論理的思考に基づく日常生活に移行してみた。するとどうだろう、「あの機械のような冷たい感情は少しも事実とはならなかった」(p103)のである。それどころか、より情緒的になり生活に対して熱心になったのだ。
「論理的」という言葉の持つ印象、悪い意味で強化されてきたこれまでの習慣の獲得による怠惰な気持ち。変わることへの恐怖、しかし、実は怖いことは何一つなく、やってみて駄目ならまた、大好きな悪習慣に戻ればよいのである。「論理的思考」という言葉が与える冷たい完璧主義的な印象は彼らが捏造した産物に過ぎない。なぜなら、「論理性という語を使う時、われわれはそれが完璧主義や絶対主義を含まないようにしている。」(p104)と著者は述べている。そして、こう結んだ「もしわれわれが、論理的思考を至高善つまり本来的な目的と考えたりしないで、当然のことだがそれを、人間の幸福を最大限増大し、逆に幸福の障害となる不安や憂うつや憎しみなどを最小にする目的のための一手段と考えれば、われわれは、論理性が過剰となる危険を逃れることができるだろう。」(p105)
人間とは本質的に不完全なものである、ところが人間はそのことを忘れ、心のどこかで完璧主義を求めている。まずは、人間の不完全性を知ることは大切なことなんだろう。冬の入り口のこの季節にそんなことを想った。
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