楽しい面白いを目標にするという習慣
この数日間は再び20度を超え、あれ?今の季節って?などと服装を見直してしまう。昨夜のカラオケパーティにも半袖で参加された人もいる。
さて、最近考えていたことは「しあわせ」とは?何を今さらと。しかし、こいつの本質がつかまえられないと人生は厄介なのである。「成功」するということ?「成功」って何?地位、立場、権力、年収など目に見える相対的なモノ?いやいや、それは終わりのないゲームであり、いつ「しあわせ」を味わうのか分からないんじゃあないすか。それでは、目に見えない絶対的なモノだろうか?結局辿り着くのは「主観的幸福感」という「しあわせ」。しかし、ある人がこういう、その「主観的幸福感」を獲得するために「成功」しなきゃならないんでしょ?このディベートはトートロジーである。
「主観的幸福感」の瞬間にフォーカスしてみる、なぜなら人は本質的には今しか生きられないのだから。それでは今「主観的幸福感」を獲得しているときって?少なくとも苦しいとか不快なときではなく、やはり、「快」の状態ですよね。そうするとやはり、「楽しい」とか「面白い」という感情が必要条件になると思う。何か具体的な目標、例えばTOEICで900点取るとか、剣道で六段に昇段したいとか、この仕事をゲットしたいなど。その過程も苦しかったり不快じゃいけないですよね。そりゃあ、表面的には厳しくて、物理的には疲れるとか眠いとかあるわけだが、精神的には楽しさや面白さを内在してなければならないはずだ。でなけりゃ、いつ「主観的幸福感」を味わうの?合格した瞬間でしょう?って、そしたら、10年かかったら10年間は不快な状態でいいの?
本当に勝手な理論なのだが、結果ではなくプロセスも含めて瞬間瞬間を「楽しく」「面白く」を目標にしたらいいんじゃないかな。その「楽しい」「面白い」は笑っちゃうというレベルのものでもいいし、精神的な充足感でもいい。「おもしろおかしくやっちゃう感じ」つまり、ある意味でのノリも必要かなと。昨日激しくシャウトしながらそんなことを考えている自分がいた。ちなみにシャウトしてたのは「ギンギラギンにさりげなく」マッチのモノマネでした。
何をくだらないこと考えているんでしょうね。しかし、そんなことが僕にとっては「楽しい」し、「面白い」のです。
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