「論理療法」アルバート・エリスを読んでみた3

 秋晴れです、10月だというのに汗ばむような気候が続いている。先週はいくつかの小学校で運動会が開催されました、暑いけれどやはり秋を感じます。
 読書の秋、「論理療法」アルバート・エリスの第8章「理性と合理性」について。アルバート・エリスは冒頭で「人間は聡明ではあるが、反対にまるで気が狂ったような振る舞いをする」ことも頻繁に起こると述べている。例えばマーローという聡明な女性が如何に非論理的な思考により、自分で自分を苦しめたかについて実例を紹介している。マーローは自分に価値がないと思い込み、誰かが自分を価値あるものにしてくれないだろうかと考えている。つまり、他人がマーローを認めてくれるのを待っている。しかし、実はこれは論理が破綻しているのだ。マーローは「自分には価値がない」と思い込んでいる、すなわち自分を受け入れていない。そのような「価値がない自分」を他人が認めるだろうか?いや、仮に認めたとしてそれは「価値のない自分」が認められたのだから、やはり価値がないということになる。ようするに堂々めぐりなのだ。そして、アルバート・エリスの論駁により、頑なだったマーローの思考が少し柔らかくなる。マーローは「彼だって私のような何の値うちもない人間を愛するはずがないわ、すぐにそんなふうに急いで結論を出してしまうのですよね。本当に私が自分にそういうとしたら、それはたしかに堂々めぐりといえます」(p93)アルバート・エリスはマーローに、こういうことについてもっと考えて欲しいと諭す。さらにアルバート・エリス(1981)は「あなたは、自分自身を本質的に価値がないと思っているので、自分を価値ある者にしてくれる他人の同意をいつも必要としている。そして、まさにその必要性のゆえに、その誤った考えにとらわれたまま、自分にある種の態度で接することを他人に要望するにとどまらず、要求としてつきつけるわけですよ」(p93)とさらに論駁している。マーローは悲劇のヒロインよろしく、価値のない自分を無理強いしているわけである。一方通行ではないだろうか?受け入れてもらおうという努力、自分を受け入れる努力、それが本来あるべ価値ある自分への受容であり、論理的な思考だろう。

 やがて、マーローはあるべき姿に気づき「自分を受け入れる」そして、病的な嫉妬も影をひそめ、新しい恋人とハッピーエンドを迎えたようである。論理的な思考とは完全主義でもないし、生真面目な態度でもない、それは理性的な自然な態度ではないかと思う。ところが、人間はいつのまにか正しい思考を見失っているのである。

ShonanManabiya

Since2005 「湘南学び舎」鎌倉を世界で一番読書の盛んな街にする /Yasutoshi. Furuhashi

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