「『自分』の壁」を読んでみた2
今日は朝5時に起きて、仙台のある高校の旅行説明会に参加した。その道中、再びこの本をパラパラとめくっていたら、しっかり再読してしまった。
今回は第2章の「本当の自分は最後に残る」というやつが気になって仕方なかった。実は仙台でプレゼンしながらも、このことを考えていた。
養老先生は自分などというものは、地図の中の矢印に過ぎないということを何度も繰り返している。つまり、個性なんて簡単につくれるものでもないし、果たして、若い人たちが伸ばす必要があるのか?もしかしたら、それよりは世間との折り合うことを学ぶべきではないかと説く。
そして、「弟子は師匠になれない」という例えを提示して、それでは「世間や他人の顔色をうかがうだけの人間ばかりにならないか?」という問題提起をした。しかし、世間に押しつぶされずにつぶれないのが「個性」と言い切る。
さらに、養老先生(2014)は、「折り合えないところについては、ケンカすればいいのです。(中略)それでも残った自分が『本当の自分』のはずです。」(p33-34「『自分』の壁」養老孟司)と述べている。そして、こう続ける。「『本当の自分』は、徹底的に争ったあとに残る。」(p34)
矛盾しているようだが、かなり大切なことを指摘していると思う。社会と折り合いをつけようと、努力しても絶対に譲れないものがあるはずだ。自分に正直に対峙したときに、自分を騙すことのできない信念。
さらに、こんな例を紹介している。日本の伝統芸能で、弟子は徹底的に師匠の真似をさせられ、「とにかく同じようにやれ」といわる。その過程は長いが、決して師匠と同じにはならない。長年師匠を真似ていても、結果まったく同じにはならないのだ。その違い、差異が個性だという。要するに、ギリギリまで食らいつき真似て真似て、自分が絞り出された演技はどうしても師匠とは同じにならない。そこに差異があり、それは結果的に個性なのである。しかし、そこに至るまでには想像を絶する時間とエネルギーを要する。
学問も芸能も運動にしても、個性は驚くべき基礎の習得の向こうにある。簡単に個性を伸ばせなんて言えないのだ。
( 「『自分』の壁」を再読して、東北新幹線やまびこの車中にて。)
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